水晶がみっちり張り付いたこの岩塊との出会いは衝撃的だった。
ときは昭和が平成に切り替わったばかりの頃。当時はまだ社会が完全週休2日に移行する前で、土曜日の午前中はみんな普通に学校や職場に行っていた。
そして、バブルの頃の当時の若者たちのデートといえば、車で女の子とドライブに行くのが定番、王道だったのだ。
大学生だったtoskaniniも、中古で買った真っ赤なサニーのハッチバックで毎週土曜日の夜は彼女と車でドライブデートに勤しんでいた(^^)
だいたい食事のあとは、夜景の見えるスポットへ行くのだが、ある日、福島市内の信夫山の中腹を一周するドライブコースを走っていたとき・・・
左は山の急斜面、右が崖になっている狭い道をゆっくりとロービームで走っていたら、なんと大きな一匹のタヌキ(地元では「ムジナ」と呼んでる)が急に飛び出してきたのだ・・・
「あっ!!」
急ブレーキでなんとかぶつからずに止まることができたのだが、タヌキがなかなか起き上がらない。
おそるおそる近づいてみると・・・
・・・
・・・この石でした。
タヌキだと思った飛び出しは実は崖からの落石で、すんでのところで直撃を免れたところだったのだ。確かに色も紛らわしい・・・
あまりにも紛らわしいので、一瞬、JARO(ジャロ)に通報したろか、と思った(笑)
サイズが分かるように愛用の土屋鞄製造所のプロータのソフトブリーフ(茶)と並べて撮影してみた。ザックリ40cm×40cmの大きさで、重さは40kg前後。
拾ったときには、とにかく重すぎて一人で持てなくて、彼女にも手伝ってもらってようやくサニーのトランクに収納できたほどである。
全体的に石英質の岩塊。30年以上前に拾った当時のまま一切の加工を施していない。
黄水晶(シトリン)になっている頭付き結晶と、透明な水晶(クリスタル)の頭付き結晶が表面、晶洞にみっちりと張り付いている。
信夫山は、金、銀、銅などを算出していた鉱山が稼働していたので水晶が取れてもおかしくない。
知る人ぞ知る話としては、戦争最末期(終戦の年の3月)に中島飛行機(現スバル)の飛行機エンジン工場が疎開してきて、廃坑道を利用した地下工場が秘密裏に建設されたこと。(帝国陸軍最高機密「フ」工場作戦)
信夫山の地下に秘密工場として作ったのは、当然のことながらB29による軍事拠点爆撃を避けるためである。
平成4年に福島東高校歴史部が工場内を調査し実測図などを作成したことが話題となった。
「廃」坑道に工場を建設したのだから、昭和20年にはすでに金や銀は掘り尽くされ閉山していたことになる。
その後、終戦から昭和30年代にかけて、学生が工場跡に侵入したり坑道竪穴に子供が転落する事故が幾度か発生し、安全のため抗口は一部を除きコンクリートで封鎖されたという。
市内の老舗宝石店◯◯◯◯の店主に、信夫山で採集したアメジストの実物を見せてもらったことがある。2~3cmの単晶で透明度が抜群、とまでは言えないもののまずまずの美晶であった。
へぇー、これが信夫山で採れるのか・・・と感激した覚えがある。
ただ、店主曰く、坑道・坑口以外にも鉱物採集できる箇所がわずかに残されていたのだが、それら産出露頭や鉱山のズリたちは崩落や藪に覆われてしまい消滅または到達不能、実質的に絶産であると。平成元年に聞いた話である。
今となっては「信夫山でアメシストが採れる」なんていう情報を知る人もほとんどいないだろう。
晶洞のアップ。奥にきれいに黄色に発色した結晶が確認できる。一方、手前側には透明な結晶が見える。
何度か、現地調査を行ったが、鉱物採集できそうな場所がまったく見つけられなかった。加えて、低山ゆえ川や沢がなく転石探しの手も使えないことがこの地での採集を諦める原因になった。
途中、崖地で露頭を見つけ、「おっ発見か!」と色めき立ったが、文献と照らし合わせたら、鉱山の関係地ではなく地元の陶芸家が陶土を採取した跡だと分かった。
なので、後にも先にも信夫山産の手持ち標本はこれ一つである。
鉱物採集できる場所を見つけられれば、まさに「幻の鉱物産地発見!」となるのだが・・・
紫水晶(アメジスト)を加熱すると化学変化により黄水晶(シトリン)となる。
おそらく、はるか昔にはこの岩は美しいアメシストだったのだろうと想像するのも楽しい。
加熱には、地中で自然に熱変性を受ける場合と、ほとんどの宝石のシトリンのように人工的に加熱される場合とがあるのだが、この石の場合は当然に前者である。
大自然の驚異、と見るたび素直に感動するのである。
そして、あの日あの時信夫山のドライブでこの石に出会った奇跡に感謝するのである。
(もちろん、嫌な顔ひとつせずに一緒に運んでくれた彼女にも・・・)
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