今日も阿武隈川に埋もれ木(※解説は本文で)を探しに行ったら・・・
とうとう見つけた、最高品質の埋もれ木を。
今まで見つけた木に比べ、黒と紫色の中間のような濃い色で、みっちりしてて重い!水に浮かないんじゃないかってぐらい。
切断面に光沢がある。また、発見時、すでにかなりヒビが入っていた。
直径約 7cm長さが約 3m。先細りで大きく湾曲している。
現場で2分割してなんとか持ち帰り、その後しっかり乾燥させるため、のこぎりでカット。小物製作用のサイズに。
新古今和歌集にも詠まれたブランド品だよこれ。
美しい。これだけで立派なオブジェになりそう・・・
(以上追記終わり)
ハンターシリーズの第2弾!
今回は地元ネタプラス、ライフワークであるトレジャーハンティングについて。
前回のブログ記事は「ヒスイハンター」ネタだったが、toskaniniは「古代遺物ハンター」歴、「化石ハンター」歴、「砂金ハンター」歴が30年超えとそれなりに長い。
活動歴が長い割にコレクションがしょぼいのが残念ではあるのだが、生業(なりわい)ではなく趣味なので、謎解き、探索、冒険が楽しければいいのである。
退職後は、生涯最後のトレジャーハンティングとして南北朝時代の1347年に落城した霊山城とともに行方不明となった「黄金の鐘」の探索に残りの人生すべてを(大げさな・・・)捧げようと心に決めている。
南朝方の東日本における有数の軍事拠点となった霊山城、霊山寺跡については、ウソみたいな話だが、令和元年版の登山マップによれば学術調査が未了とのこと!!、金属探知機でメタルディテクティングすればきっと金銀財宝がざくざくと出ちゃうかも・・・嗚呼妄想が止まらない(笑)
実際には、県立自然公園に全域指定されているので、掘削許可は出ません・・・文献調査と推理を楽しむことしかできないのだ(泣)
明治天皇勅撰である「霊山神社」の参道入口の目の前の家がtoskaniniの母の生家なのだが、母が言うには、戦後まもない頃まではテントを張って霊山城・霊山寺の財宝探しをする山師がいたり、周囲の畑から南北朝時代の古銭や渡来銭がそれほど珍しくもなく出土したそうである。
ちなみに、霊山神社が明治天皇勅撰の別格官幣社であったことなどから戊辰戦争で官軍が掲げた「錦の御旗」の実物が奉納され社宝の一つとなっている。
慣用句の中の言葉だとばかり思っていて、まさか実物の旗がこの世にあるとは知らなかった・・・
その実物だが、0.6m✕3mぐらいのサイズ、色あせてるとはいえ赤漆で描いた菊の御紋を日の丸に見立てた実に壮麗な旗であった。「我こそが正義」と戦ってきた幕府軍が旗を見て天皇に弓引く不敬に畏怖し撤退したという伝承が伝わるのも納得である。(2018年に何十年ぶりかで伊達市歴史資料館にて特別公開された)
鳥羽伏見の戦いを前にこの錦の御旗の制作を委嘱されたのは岩倉具視卿。戊辰戦争後のこの旗の奉納が縁だったのだろうか、太平洋戦争時、子孫である男爵岩倉家(公爵岩倉家の分家の一つ)の疎開先はこの霊山町であった。
母は子供の頃の記憶として、大人たちの会話に「男爵様」という言葉が出てきたことを覚えているそうである。
また、賊軍とされた会津藩家老だった西郷頼母は戦後赦免ののち神職を得て、明治期に霊山神社の宮司を10年ほど勤めたが、養子の西郷四郎(姿三四郎のモデルとなった柔道家)に霊山神社の境内で柔術の稽古をつけていたとの逸話が残っている。
運命のいたずらである。
敗戦後、賊軍とされた会津藩の生き残りたちへの処遇は苛烈を極めた。
かつて会津藩の家老だった頼母は、宝物庫に眠る官軍(新政府側)の象徴「錦の御旗」をどのような想いで見つめたのだろうか。
敗戦後、賊軍とされた会津藩の生き残りたちへの処遇は苛烈を極めた。
かつて会津藩の家老だった頼母は、宝物庫に眠る官軍(新政府側)の象徴「錦の御旗」をどのような想いで見つめたのだろうか。
恩讐か、それとも哀愁か。
「古代遺物」は、実家近所の縄文中期の居住跡(現在はほとんどが荒れ田と畑)で土器片や石器片を探すもの。地元町史によれば、この遺跡の学術調査は昭和50年代に終了している。
現在も耕作中の畑だと、①雑草が借り払われていて探しやすい、②定期的に耕運機で土を耕すのでたまに土中の石器片が顔を出すことがある、という利点があり、作物の収穫後の表面採集を年に1回程度。もちろん地主(父の知人)に事前にお断りしてから畑に立ち入っている。
最近、石器を形状・用途ごとに分類しコレクション箱に整理したので近日中にブログで紹介したい。
「化石」は地元採取だけでは厳しい。
良く行くのはいわき市の大久地区で名前もついてない沢筋から双葉断層の貝の化石を採取。
また、質の良い植物化石の産地として福島市の穴原奥のとある渓谷がお気に入りだったのだが平成15年ごろの台風で河床まで降りていく道が崩れ、それ以降行っていない。
その他、パレオパラドキシアで有名な梁川町の広瀬川、堰本の入ノ内地区など化石を採取できる場所は多々あるのだが、コレクションに耐えうる品質のノジュール又はそれに準ずる硬質の母岩を持つ化石だと上記2か所ぐらいしか行っていない。
そして今回のテーマ「砂金」である。
ずっと不思議だったことがある。
今住んでいる保原町には金鉱山跡や露頭堀を含めた金の採掘跡が53箇所ある。
その一方で生まれた実家のある隣の梁川町には1箇所もない。少ない、ではなく皆無つまり0箇所である。
隣り合った町でこの差は?
まさか、金の産出のある無しで町の境界を決めた訳でもあるまいし。
小学生の頃、学校の図書室から借りてスティーブンソンの「宝島」を読んで以来、金銀財宝を実際にこの手で見つけることがtoskaniniの夢になった。
就職してから働いてお金を貯め、表向きはポートフォリオ対策として資産の一部を金貨とプラチナ貨に替えたのだが、本当の理由は美しく輝く金・プラチナという財宝を所有したかっただけなんだろうと今にして思うのである。
ウィーン金貨、カンガルー金貨、イーグルプラチナ貨の図
(山吹色の魅惑萌え!)
砂金ハンターとしては福島市の松川鉱山、金谷川鉱山の近くの沢で椀がけを幾度か行ったことがあるが文献調査不足か、微量の成果しか得られていない。
一方、20年ぐらい前に、石川町の金田川や大橋川で椀がけや草根引きをしたときには半日程度でそれなりの量の砂金が採取できた経験がある。ただ、ほとんどが粉金(柴金とも言う)だったためかなくしてしまい手元にない。
なお、この2河川だが、現況は農業用水路としてすべてコンクリートの三面張りか、コンクリート側溝になっており地図では合流先の「社川」と表示されている。すでに法律上は廃川扱いされているのかもしれない。もはや川の体裁がなく砂金堀り以前の問題である。
で、最近は無謀にも誰もチャレンジしていない「阿武隈川本流から砂金を採ること」に挑んでいる。
チャレンジのきっかけは地元の金山伝説と深い関わりが。
地元保原の金産出については文献も多々あるほか、個人で文献資料と現地調査により金山跡を探し出すフィールドワークの結果をブログ等で報告している方が何人もいる。
とても緻密な研究でいつも感心し拝見している。
さて、伊達市が作成した歴史ガイドブック~伊達氏編~の13ページの「箱崎愛宕神社の獅子舞」の説明文の中に、
「獅子舞は箱崎愛宕山の金鉱山の工夫たちによって始められたという言い伝えも残されている。金山は箱崎から保原柱田の山々に広がっており、伊達氏が開発したと伝えられる。」
の記載がある。
確かに福島県鉱産誌等の文献には「高子鉱山」、「富保鉱山」、「上保原鉱山」、「柱田鉱山」などの記載がありガイドブックの記述の根拠となっているのではないかと推察されるが、「愛宕山の金山」については鉱産誌の類に載っているのを見たことがない。
これら資料には各鉱山の沿革等はそれなりに詳細に記載されているのだが、いずれも古い文献なので(ちなみに「福島県鉱産誌」は1964年発刊なので50年以上前の本である。また「鉱山誌」と誤って紹介しているブログもあるが「鉱産誌」が正しい。)地名や道路も変わっていることに加え、抗口が埋められ草木に隠れてしまったケースだと場所の特定はほぼ不可能である。
残念ながら、保原の各金山も遅くとも昭和初期までにはすべて閉山しており、ごく一部を除き正確な場所が不明となっている鉱山ばかりである。
箱崎愛宕山は阿武隈川本流と摺上川の合流地点の東河岸辺り、通称「箱石の渡し(箱崎の渡し)」のすぐ東側に位置しており、鉱産誌に記述のある一連の各金山とも距離が近く、かつ山体も連続している場所となることから、上述伊達市作成のガイドブックに書いてあるとおり金山があったとしても何ら矛盾はない。
箱石の渡し
箱石の渡し(東岸から瀬上方面、摺上川方面を望んで)
箱石の渡し
愛宕神社は箱石の渡しのすぐ隣に位置し、直下の崖は岩肌の露出部分が目立つ。
見た感じ、自然に形成された割には岩石に劈開性が少ないように思え、金採取のため露頭掘りされた跡ではないかと推測することもできる。
渡しから見た愛宕神社下の崖(露頭掘り?の跡)
山頂部に神社がある。川岸から神社まで100mもない。
箱石の渡しは渇水期に河床岩盤が露出しポットホールも多い。付近に鉱脈が存在するならポットホールの中に砂鉄と一緒に砂金も絶対に沈んでいるはず。
もちろん河床が露出しているので盤叩きでも草根引きでも良い。
仮説検証のため、ここ10年ぐらい周辺を探していたのだが・・・
ついに、今回ようやく河床地に鉱脈を発見することができたのでブログに記載する(正確な場所はあえて記載しない)。
幅は狭小ながらも典型的な火山性の石英脈である。
東の方角、つまり一連の箱崎、高子、上保原金山の方角へと伸びている。
もちろん、金を含まないただの石英脈という可能性もなくはないが、周辺の金鉱山との近接性からまず間違いなく金を含んでいるはずである。
ちなみに鉱脈の上に写ってる汚い木片は、新古今和歌集にも詠まれた銘木中の名木「阿武隈川の埋もれ木」の木片である。ようやく見つかった(と思う)。
判別法は簡単で、のこぎりで切った木屑が黒や灰や紫色なら・・・埋もれ木確定なのだが・・・これは普通の木屑と黒い木屑混じり!?
部分的ではあるが内部が黒っぽく硬質化しのこぎりで切断しただけなのに断面に光沢を生じており、生木とは明らかに様相が異なっている。
たぶん埋もれ木(ただし、埋もれ歴浅め)だろう。
新古今和歌集 巻第十六 雑歌上
詠人:藤原家隆朝臣
「きみかよに あふくまかはの むもれ木も こほりのしたに 春をまちけり」
(君が代に 阿武隈川の 埋もれ木も 氷の下に 春を待ちけり)
この歌こそ、鎌倉時代にはすでに阿武隈川産の埋もれ木が京の都人(みやこびと)や幕府の文化人の間でブランド化され好まれていた証なのである。
阿武隈川産の埋もれ木は宮城県の名取川産と並び、我が国で最も有名な埋もれ木のブランドである。
「埋もれ木」とは数百年~数千年の間川底に埋没し変性した木が大水等により偶然に河原に打ち上げられたもの。
「神秘の名木」と称される「黒柿」に並ぶ逸品中の逸品であり、自然が稀に気まぐれにしか提供しない点では伽羅や沈香などの「香木」に近い存在である。
そうした生成のメカニズム上、埋れ木を人為的に作ることはできず、手にすることのできる人は限られ、金を出しさえすれば買える、などという安易なアイテムではないところが素晴らしい。
発見された分だけ埋蔵量が減っていく存在なので、今後、希少価値は右肩上がり間違いなしと思っている。
例えば超レアアイテムである「黒柿」ですら、理論上、伐採した分を植樹さえしていけば、量はともかく将来に渡って入手自体は安定的に可能となることを考えると、埋れ木の希少価値は途方も無いのでは・・・と個人的に評価している。
ということで「埋もれ木」も立派にtoskaninのトレジャーハンティングの対象となり得るのである。
また、材木商が「神代杉(じんだいすぎ)、神代欅(じんだいけやき)」などの名称で高値で取り扱っているものも分類上は一部埋れ木と重なるのではと推測できる。
通常木が水や土、空気と合わさると「腐食」するが、(実際、ほとんどは腐る)極めて稀に特別の条件下でのみ、木理を保ちながら緻密で硬質、灰~黒色、紫や赤茶色等の艶のある美しい木材が生み出される。
水中や川岸に埋もれた木がすべて埋れ木になるわけではなく、むしろ大部分は腐食し、幾つもの条件が奇跡的に満たされた場合に限って埋もれ木が生成されると考えられている。
一方で埋れ木は長い間水中や土中にあったため乾燥の過程でヒビや狂いを生じやすい。
よって、一定以上の大きさの塊や製材に加工出来た場合、途方も無い希少価値を有する。
埋れ木は、ただの木材と木の化石である珪化木の中間的存在とtoskanini的には理解している。
川底や水中での埋没期間との関係でいうと・・・
0〜数年 → ただの流木
数百年〜数千年 → 埋れ木
数十万年〜数億年 → 亜炭、化石(珪化木)
みたいなイメージだろうか。
さて、鉱脈に話を戻すが、発見が超嬉しくて、パンニング皿で付近の沈澱砂を気合を入れて椀がけしたところ、ごく小さい砂金粒が採取されたので報告しておきたいと思う。
記念すべき本流からの歴史上初の採取ではないかと。
少なくともそのような書物や文献を目にしたことはない(のでそのように無理にでも思いたい(笑))
たった1粒しか採取できなかったが、砂鉄だまりが何箇所か見つけられたので、丹念に探せば再度砂金が採れるかもしれない。砂鉄の他には黒いガーネットの小粒たち、黄鉄鉱の小さな結晶、散弾銃の玉、それも現在使われていない比重の重い鉛玉、などが3時間のパンニングの結果である。
現在の金価格はグラム当たり5,500円前後の高騰期であるが、労力に比して圧倒的に砂金採取の可能性は低いので真似することはオススメしない。
というか、阿武隈川の本流で砂金採りをしようとするうつけ者が他にいるとは到底思えないが・・・
(撮影が下手でスマソ。砂金粒を小瓶に入れてルーペ越しにスマホで撮影、それを一人でやるとこんな写真になる(泣))
現在も耕作中の畑だと、①雑草が借り払われていて探しやすい、②定期的に耕運機で土を耕すのでたまに土中の石器片が顔を出すことがある、という利点があり、作物の収穫後の表面採集を年に1回程度。もちろん地主(父の知人)に事前にお断りしてから畑に立ち入っている。
最近、石器を形状・用途ごとに分類しコレクション箱に整理したので近日中にブログで紹介したい。
「化石」は地元採取だけでは厳しい。
良く行くのはいわき市の大久地区で名前もついてない沢筋から双葉断層の貝の化石を採取。
また、質の良い植物化石の産地として福島市の穴原奥のとある渓谷がお気に入りだったのだが平成15年ごろの台風で河床まで降りていく道が崩れ、それ以降行っていない。
その他、パレオパラドキシアで有名な梁川町の広瀬川、堰本の入ノ内地区など化石を採取できる場所は多々あるのだが、コレクションに耐えうる品質のノジュール又はそれに準ずる硬質の母岩を持つ化石だと上記2か所ぐらいしか行っていない。
そして今回のテーマ「砂金」である。
ずっと不思議だったことがある。
今住んでいる保原町には金鉱山跡や露頭堀を含めた金の採掘跡が53箇所ある。
その一方で生まれた実家のある隣の梁川町には1箇所もない。少ない、ではなく皆無つまり0箇所である。
隣り合った町でこの差は?
まさか、金の産出のある無しで町の境界を決めた訳でもあるまいし。
小学生の頃、学校の図書室から借りてスティーブンソンの「宝島」を読んで以来、金銀財宝を実際にこの手で見つけることがtoskaniniの夢になった。
就職してから働いてお金を貯め、表向きはポートフォリオ対策として資産の一部を金貨とプラチナ貨に替えたのだが、本当の理由は美しく輝く金・プラチナという財宝を所有したかっただけなんだろうと今にして思うのである。
ウィーン金貨、カンガルー金貨、イーグルプラチナ貨の図
(山吹色の魅惑萌え!)
砂金ハンターとしては福島市の松川鉱山、金谷川鉱山の近くの沢で椀がけを幾度か行ったことがあるが文献調査不足か、微量の成果しか得られていない。
一方、20年ぐらい前に、石川町の金田川や大橋川で椀がけや草根引きをしたときには半日程度でそれなりの量の砂金が採取できた経験がある。ただ、ほとんどが粉金(柴金とも言う)だったためかなくしてしまい手元にない。
なお、この2河川だが、現況は農業用水路としてすべてコンクリートの三面張りか、コンクリート側溝になっており地図では合流先の「社川」と表示されている。すでに法律上は廃川扱いされているのかもしれない。もはや川の体裁がなく砂金堀り以前の問題である。
で、最近は無謀にも誰もチャレンジしていない「阿武隈川本流から砂金を採ること」に挑んでいる。
チャレンジのきっかけは地元の金山伝説と深い関わりが。
地元保原の金産出については文献も多々あるほか、個人で文献資料と現地調査により金山跡を探し出すフィールドワークの結果をブログ等で報告している方が何人もいる。
とても緻密な研究でいつも感心し拝見している。
さて、伊達市が作成した歴史ガイドブック~伊達氏編~の13ページの「箱崎愛宕神社の獅子舞」の説明文の中に、
「獅子舞は箱崎愛宕山の金鉱山の工夫たちによって始められたという言い伝えも残されている。金山は箱崎から保原柱田の山々に広がっており、伊達氏が開発したと伝えられる。」
の記載がある。
確かに福島県鉱産誌等の文献には「高子鉱山」、「富保鉱山」、「上保原鉱山」、「柱田鉱山」などの記載がありガイドブックの記述の根拠となっているのではないかと推察されるが、「愛宕山の金山」については鉱産誌の類に載っているのを見たことがない。
これら資料には各鉱山の沿革等はそれなりに詳細に記載されているのだが、いずれも古い文献なので(ちなみに「福島県鉱産誌」は1964年発刊なので50年以上前の本である。また「鉱山誌」と誤って紹介しているブログもあるが「鉱産誌」が正しい。)地名や道路も変わっていることに加え、抗口が埋められ草木に隠れてしまったケースだと場所の特定はほぼ不可能である。
残念ながら、保原の各金山も遅くとも昭和初期までにはすべて閉山しており、ごく一部を除き正確な場所が不明となっている鉱山ばかりである。
箱崎愛宕山は阿武隈川本流と摺上川の合流地点の東河岸辺り、通称「箱石の渡し(箱崎の渡し)」のすぐ東側に位置しており、鉱産誌に記述のある一連の各金山とも距離が近く、かつ山体も連続している場所となることから、上述伊達市作成のガイドブックに書いてあるとおり金山があったとしても何ら矛盾はない。
箱石の渡し
箱石の渡し(東岸から瀬上方面、摺上川方面を望んで)
箱石の渡し
愛宕神社は箱石の渡しのすぐ隣に位置し、直下の崖は岩肌の露出部分が目立つ。
見た感じ、自然に形成された割には岩石に劈開性が少ないように思え、金採取のため露頭掘りされた跡ではないかと推測することもできる。
渡しから見た愛宕神社下の崖(露頭掘り?の跡)
山頂部に神社がある。川岸から神社まで100mもない。
箱石の渡しは渇水期に河床岩盤が露出しポットホールも多い。付近に鉱脈が存在するならポットホールの中に砂鉄と一緒に砂金も絶対に沈んでいるはず。
もちろん河床が露出しているので盤叩きでも草根引きでも良い。
仮説検証のため、ここ10年ぐらい周辺を探していたのだが・・・
ついに、今回ようやく河床地に鉱脈を発見することができたのでブログに記載する(正確な場所はあえて記載しない)。
幅は狭小ながらも典型的な火山性の石英脈である。
東の方角、つまり一連の箱崎、高子、上保原金山の方角へと伸びている。
もちろん、金を含まないただの石英脈という可能性もなくはないが、周辺の金鉱山との近接性からまず間違いなく金を含んでいるはずである。
ちなみに鉱脈の上に写ってる汚い木片は、新古今和歌集にも詠まれた銘木中の名木「阿武隈川の埋もれ木」の木片である。ようやく見つかった(と思う)。
判別法は簡単で、のこぎりで切った木屑が黒や灰や紫色なら・・・埋もれ木確定なのだが・・・これは普通の木屑と黒い木屑混じり!?
部分的ではあるが内部が黒っぽく硬質化しのこぎりで切断しただけなのに断面に光沢を生じており、生木とは明らかに様相が異なっている。
たぶん埋もれ木(ただし、埋もれ歴浅め)だろう。
新古今和歌集 巻第十六 雑歌上
詠人:藤原家隆朝臣
「きみかよに あふくまかはの むもれ木も こほりのしたに 春をまちけり」
(君が代に 阿武隈川の 埋もれ木も 氷の下に 春を待ちけり)
この歌こそ、鎌倉時代にはすでに阿武隈川産の埋もれ木が京の都人(みやこびと)や幕府の文化人の間でブランド化され好まれていた証なのである。
阿武隈川産の埋もれ木は宮城県の名取川産と並び、我が国で最も有名な埋もれ木のブランドである。
「埋もれ木」とは数百年~数千年の間川底に埋没し変性した木が大水等により偶然に河原に打ち上げられたもの。
「神秘の名木」と称される「黒柿」に並ぶ逸品中の逸品であり、自然が稀に気まぐれにしか提供しない点では伽羅や沈香などの「香木」に近い存在である。
そうした生成のメカニズム上、埋れ木を人為的に作ることはできず、手にすることのできる人は限られ、金を出しさえすれば買える、などという安易なアイテムではないところが素晴らしい。
発見された分だけ埋蔵量が減っていく存在なので、今後、希少価値は右肩上がり間違いなしと思っている。
例えば超レアアイテムである「黒柿」ですら、理論上、伐採した分を植樹さえしていけば、量はともかく将来に渡って入手自体は安定的に可能となることを考えると、埋れ木の希少価値は途方も無いのでは・・・と個人的に評価している。
ということで「埋もれ木」も立派にtoskaninのトレジャーハンティングの対象となり得るのである。
また、材木商が「神代杉(じんだいすぎ)、神代欅(じんだいけやき)」などの名称で高値で取り扱っているものも分類上は一部埋れ木と重なるのではと推測できる。
通常木が水や土、空気と合わさると「腐食」するが、(実際、ほとんどは腐る)極めて稀に特別の条件下でのみ、木理を保ちながら緻密で硬質、灰~黒色、紫や赤茶色等の艶のある美しい木材が生み出される。
水中や川岸に埋もれた木がすべて埋れ木になるわけではなく、むしろ大部分は腐食し、幾つもの条件が奇跡的に満たされた場合に限って埋もれ木が生成されると考えられている。
一方で埋れ木は長い間水中や土中にあったため乾燥の過程でヒビや狂いを生じやすい。
よって、一定以上の大きさの塊や製材に加工出来た場合、途方も無い希少価値を有する。
埋れ木は、ただの木材と木の化石である珪化木の中間的存在とtoskanini的には理解している。
川底や水中での埋没期間との関係でいうと・・・
0〜数年 → ただの流木
数百年〜数千年 → 埋れ木
数十万年〜数億年 → 亜炭、化石(珪化木)
みたいなイメージだろうか。
さて、鉱脈に話を戻すが、発見が超嬉しくて、パンニング皿で付近の沈澱砂を気合を入れて椀がけしたところ、ごく小さい砂金粒が採取されたので報告しておきたいと思う。
記念すべき本流からの歴史上初の採取ではないかと。
少なくともそのような書物や文献を目にしたことはない(のでそのように無理にでも思いたい(笑))
たった1粒しか採取できなかったが、砂鉄だまりが何箇所か見つけられたので、丹念に探せば再度砂金が採れるかもしれない。砂鉄の他には黒いガーネットの小粒たち、黄鉄鉱の小さな結晶、散弾銃の玉、それも現在使われていない比重の重い鉛玉、などが3時間のパンニングの結果である。
現在の金価格はグラム当たり5,500円前後の高騰期であるが、労力に比して圧倒的に砂金採取の可能性は低いので真似することはオススメしない。
というか、阿武隈川の本流で砂金採りをしようとするうつけ者が他にいるとは到底思えないが・・・
(撮影が下手でスマソ。砂金粒を小瓶に入れてルーペ越しにスマホで撮影、それを一人でやるとこんな写真になる(泣))
はじめまして!1年半前に北海道から単身赴任してきた者です。北海道で砂金堀にはまっていた事もあり、こちらでも採れないかと県内をあちこち歩きましたが、厳しさを痛感しておりました。上流に金山があるので阿武隈川でも採れるのではないかと思っていましたが、まさか本当に採る人がいるとは驚きです。砂金は上流から流れてきたものなのか、鉱脈が崩壊したものなのか興味がありますが、いずれにしても採れたという事実が素晴らしい。埋れ木もカッチャの柄に良いのではと大いに興味あります。有益な情報ありがとうございました。
返信削除へるふねさん、コメントありがとうございます。
削除自分としてはすぐそばの鉱脈由来ではないかと思っていますが10km圏内の支流で砂金のとれる川が複数あるため確信が持てません。
へるふねさんもぜひいろいろチャレンジをお願いします(^_^)